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飲食品でヒット商品をつくる


「あの人気商品はこうして開発された!」
「チョーヤ梅酒」-日本独自のアルコール飲料をめざす
1959年、「チョーヤ梅酒」が発売された。日本にしかできないアルコールをつくる。そんな思いから開発した商品だったが、発売当初はまったく売れなかった。それから約20年、臥薪嘗胆の時期を経て「チョーヤ梅酒」が市場で認知されていった。そのわけは……

梅の原産地は中国の長江流域であり、日本に渡来したのは弥生時代といわれる。やがて梅が農家で栽培されるようになると、梅干や梅酒などの保存食および家庭薬へとその利用が始まった。

梅酒は、焼酎などの蒸留酒に青梅と砂糖を漬け込んだ酒であり、その商品化のパイオニアがチョーヤ梅酒株式会社だ。創業は1914(大正3)年、金銅住太郎氏が大阪南東部の駒ヶ谷村(現在の羽曳野市駒ヶ谷)で始めたぶどう栽培に遡る。駒ヶ谷村はぶどう栽培に最適な気候・土壌条件を備えており、古くからぶどう栽培とぶどう酒づくりが盛んな土地だった。

住太郎氏も24(大正13)年にぶどう酒の醸造・販売に乗り出す。屋号(社名)は「恵美須印醸造所」(53年に蝶矢に社名変更)。生来きまじめな住太郎氏はぶどう酒づくりに没頭し、昭和期の第2次世界大戦中でも品質を追求し続けた。戦時中のぶどう酒づくりは原料の調達やらなんやら困難だらけと想像するかもしれない。が、意外にもぶどう酒の醸造は軍需産業として保護されていたのだ。というのも、ぶどう酒から取れる酒石酸の結晶は電波探知機の部品として用いられたため、ぶどう酒の醸造所には原料である砂糖が配給されていた。しかし、中には砂糖の使用を惜しむ醸造所もあったが、住太郎氏は頓着することなく砂糖を使い、ひたすら最高のぶどう酒づくりを追い求めていた。

梅酒なんか売れまへんで

そのひたむきな姿勢が戦後になって実を結び、品質の高い住太郎氏のぶどう酒はよく売れ、企業としての礎を築いていった。しかし、やがてぶどう酒の醸造所は数百件と乱立状態になり、先行きが不透明な状況になっていく。また、ゆくゆくは外国産のワインが日本でも主流となり、自らの業績が圧迫されると住太郎氏は予見した。そこで昭和30年代の初め、日本独自のアルコール商品の開発を標榜した。日本にしかできないアルコールをつくりだす。検討に検討を重ねた結果、行き着いたのが梅酒だった。海外にはないアルコール飲料だが、日本人にはなじみが深く、かつ原料は隣接の和歌山で高品質の紀州梅が収穫される。まさに商品化の条件が揃ったアルコール飲料と思われた。

が、ただ1つ、大きな壁があった。「梅酒は家でつくるもの」という日本人の共通観念だ。江戸期から飲用されていた梅酒は自家でつくる酒。わざわざ買ってまで飲まない。誰しもがそう考えていた。しかしそれでも住太郎氏は梅酒の製造を始めた。59年のことだった。

1959年に発売された「チョーヤ梅酒」だったが、当初はまったくといっていいほど売れなかった(1960年代の店頭販売)

1959年に発売された「チョーヤ梅酒」だったが、当初はまったくといっていいほど売れなかった(1960年代の店頭販売)

案の定、売れなかった。酒販店からは「梅酒は家でつくるもんや、みんな原価知ってんのに儲かるわけあらへん」と嘲笑され、社員からさえ「なんで梅酒なんかつくりまんねん、売れまへんで」と反発の声が出る始末。営業マンは店頭に置いてもらうよう酒販店の主人に頭を下げて回ったが、その努力のかいもなく売れ行きは芳しくなかった。

62年に法人組織(蝶矢洋酒醸造株式会社に変更)にしたものの売上げの厳しさは変わらず、さらに昭和40年代になると苦難は増し、酒販店を巡回するたびに店頭でほこりを被る商品を拭くことが仕事のようなありさまだった。

苦節20年でようやく日の目をみた

「チョーヤ梅酒」は昭和50年代になってようやく売れ始めた(写真は昭和50年頃の商品)

「チョーヤ梅酒」は昭和50年代になってようやく売れ始めた(写真は昭和50年頃の商品)

捲土重来は昭和50年代に始まった。梅酒が売れ始めたのだ。都市部への人口集中や核家族化の広がりにより、家庭で梅酒をつくる機会が減っていったからだ。否、梅酒に限らず漬物などの食品も徐々に自家製から市販品へと移り始めていた。そんなライフスタイルの変化が梅酒の販売を後押ししたのだ。

昭和50年代半ばになるとさらに売上げが伸び、84年には同社の売上げの50%を梅酒が占めるようになる(残り50%はぶどう酒、ブランデー、ジュース類)。発売から苦節20年、ようやく梅酒が同社の基幹商品へと躍り出たのである。さらに86年にヒット商品「紀州」が発売される。梅酒の容器を従来のつぼ型からたて長型に替え、冷蔵庫のドアポケットに収まるスタイルにしたこと、また、広口びんに梅が入っているという手づくりのイメージが消費者にうけ、年間100万本を売り上げた。

食前酒の訴求を図るため、1989年に赤い梅酒の「PERILLA(ペリーラ)」を発売した)

食前酒の訴求を図るため、1989年に赤い梅酒の「PERILLA(ペリーラ)」を発売した

しかし、喜んでばかりもいられなかった。梅酒市場に大手酒造メーカーが参入してきたことで予断を許さない状況となっていった。また、梅酒に対する消費者の意識が自家製から市販品へと変化したものの、さらに売上げを伸ばすためには新しいマーケティング戦略が必要になる。そこで打ち出したのが、梅酒のもつ古臭さの払拭だった。それには食前酒としてのイメージを市場に浸透させることだ。実際、梅酒はクエン酸の効果で食欲を促進させるため、食前酒には最適だ。そこでターゲットである30~40代の主婦に食前酒の訴求を図るため、89年に赤い梅酒の「ペリーラ」を発売した。食生活の欧米化が定着した当時、ゆっくり食事をするという流行に狙い定めた商品のリリースだった。

炭酸入り梅酒「ウメッシュ」のヒットは、若い女性へと購買層を広げていった)

炭酸入り梅酒「ウメッシュ」のヒットは、若い女性へと購買層を広げていった

この食前酒戦略と炭酸入り梅酒缶「ウメッシュ」のヒットにより、30~40代の主婦のみならず20代の女性も新しい購買層として取り込んでいった。

ちなみに、「ウメッシュ」の発売は77年と古く、当時、消費者が炭酸で割って飲んでいるという話を聞き、商品化したのが始まりだった。ただ、そのときは1年で終売となり、87年にリニューアルして発売された。それは、85年ころのワインクーラブーム(ワインのソーダ割り)の流れに乗るもので、ウメッシュの売上げは2年目で初年度の2倍、3年目で5倍、6年目で20倍とヒット後も着実に伸ばしていった。

時代のニーズにいかに応えていくか

1990年代に入ると消費者の健康志向に合致した梅酒がブームとなり、国内市場は毎年2ケタの成長を続け、94年には84年比で5倍にまで成長する。健康酒、食前酒としてばかりでなく日常的に楽しむお酒としての認知度が広がった結果だ。

そして国内市場が拡大する一方で、梅酒に対する消費者ニーズも多様化していった。その1つに甘さを避ける傾向があった。本来、梅酒は甘みに特徴のある酒だったが、市場のニーズに応えた甘さを控えスッキリした口あたりの「さらりとした梅酒」を96年に発売した。「さらりとした梅酒」は甘さを抑えるとともに、アルコール分も従来(14%)より低くく抑え(10%)、ライト感覚で楽しめる梅酒にしたことで消費者の支持を得た。

2011年に発売されたノンアルコールの梅酒「酔わないウメッシュ」。消費者の人気に押され、発売間もなく増産した

2011年に発売されたノンアルコールの梅酒「酔わないウメッシュ」。消費者の人気に押され、発売間もなく増産した

2000年、社名を蝶矢洋酒醸造からチョーヤ梅酒に変更した。チョーヤ(蝶矢)の由来は、駒ヶ谷周辺の山に万葉時代から生息するギフチョウ(岐阜蝶)、および石器時に付近で採取された石の用途である矢じりにある。

現在、チョーヤ梅酒は梅酒商品で約40%の市場シェアを維持するが、最近の若年層を中心とした消費者のアルコール離れには苦慮している。梅酒の良さを消費者に理解してもらおうと時代に合わせてさまざまな商品を提供してきた。が、アルコール自体を嗜まない傾向は、これまでの市場の推移とはまったく異なる現象だ。その対応として2011年、ノンアルコールの梅酒「酔わないウメッシュ」を発売した。製法からいえば清涼飲料なのだが、炭酸入り梅酒「ウメッシュ」の味わいに近づけることで、アルコールを嗜む雰囲気を楽しめるように工夫した。「酔わないウメッシュ」は発売後間もなく増産するなど、市場から確かな手ごたえを得ている。

企業データ
チョーヤ梅酒株式会社
代表取締役社長 金銅重弘
大阪府羽曳野市駒ヶ谷160-1
掲載日:2012年1月13日


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